エステーが挑む、「データサイエンス×AI×人」による成熟ブランドの再定義【Brand Summit Spring 2026 イベントレポート】

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データサイエンス

防虫剤市場において圧倒的シェアを誇るエステー。しかし、ライフスタイルの変化により「衣替え」という習慣が希薄化し、市場は「需要の蒸発」とも言える縮小に直面している。

この局面を打開するため、同社が挑んだのは「データサイエンス×AI×人」による事業の捉え直しだ。

2026年3月12日、広島で開催されたマーケティングの「今」を網羅するイベント『Brand Summit Spring 2026』で、エステー株式会社の代表執行役社長 上月 洋氏と、サイカ 代表取締役社長CEO 平尾 喜昭が登壇。今回のイベントテーマとなる「Data with Insight ――データドリブンと人間・感情の理解を融合し、“心の動き”を読み解きながらブランド価値を高める」に因んで、エステーにおける、データサイエンスとAIによって生活者の深層心理を読み解き、ブランド価値を再定義するプロセスを公開した。

このレポートでは、当日のセッションの内容を紹介する。

エステー株式会社の代表執行役社長 上月 洋氏 プロフィール
サイカ 代表取締役社長CEO 平尾 喜昭 プロフィール

AI活用の成否を分ける「コンテキスト」の重要性

セッションの冒頭、平尾は現在のAI活用について以下のように警鐘を鳴らした。

「パブリックデータや自社データをそのままAIに学習させるだけでは、アウトプットは非常に凡庸になります。特に、市場が変化している局面では、差別化できない平均的な提言に留まってしまうのです(平尾)」

平尾が強調したのは、「独自コンテキスト(文脈)」の組み込みの重要性だ。「セマンティックレイヤー(複雑なデータ構造を、ビジネス用語で定義し直した「翻訳層」)」とも呼ばれる概念だが、まずデータサイエンスによって市場や自社のメカニズムを解明し、その結果をコンテキストとして組み込んだ上でAIに思考させる。この工程を経て初めてAIは人知を超えた、自社独自の“核心的”な提言を導き出せるようになるのだ。

意思決定におけるAI活用のポイント
意思決定におけるAI活用のポイント

データサイエンス×AIが導き出した「ムシューダ」の変革シナリオ

では、具体的にどのようなコンテキストを揃えるべきか。平尾は、AIに思考させる前段階として、「市場・顧客・マーケティング投資・自社」の4領域におけるメカニズム解明が不可欠であると説明した。

単に市場の変遷や顧客インサイトといった「質」の要因を追い求めるだけでは、戦略の実効性は担保できない。メディア出稿量などの「量」の要因が、実際の売上にどう寄与しているのかも解明してこそ投資の最適化が可能になる。さらに、どれほど優れた戦略をAIが提示しても、現場や組織に実行の阻害要因があればアクションには至らない。だからこそ、自社の組織力学(組織メカニズム)までをも解き明かし、全社が納得感を持って一歩を踏み出せる状態を作ることが、戦略を動かすための鍵となるのだ。

データサイエンス×AI×人による戦略的意思決定の最適化
データサイエンス×AI×人による戦略的意思決定の最適化

防虫剤「ムシューダ」は、国内シェアNo.1として圧倒的なプレゼンスを確立している。しかしその一方で、ライフスタイルの変化や人口減少といった市場縮小に直面しており、これまでの正攻法をなぞるだけでは、変化する市場に通用できなくなると感じていたという。そこで、この状況を打破すべく行われた、データサイエンスによる徹底的な解剖の結果は以下の通りである。

市場メカニズム:なぜ市場は縮小しているのか、その真因を時系列分析から特定。低迷の理由は、購入率の低下などではなく「使用率」の低下にあり、市場から人が流出し続けていることが判明した。

顧客メカニズム:グループインタビューにより抽出したインサイトを基に設計したキーワードで、SNS上の約130万件の投稿を収集し、トピックモデリング分析を実施。かつての「衣替え」というイベント軸から、現代では「日常の衣類ケア」というように、防虫剤のニーズが変容している事実を可視化した。

マーケティング投資メカニズム:MMM(マーケティング・ミックス・モデリング)を用い、メディアごとのROASを比較。最適な予算配分や出稿パターンを解明した。さらに、CMM(コンシューマー・ミックス・モデリング)により、競合から自社へスイッチさせるためのKSF:Key Success Factor(主要成功要因)を、「堅守すべきKSF」と「投資すべきKSF」の2軸で特定した。

自社メカニズム:各部門にアンケートを行い、組織の実態を調査。「過去の成功体験」や「リソース不足への懸念」が、成長ストッパーになっていることを特定。全社的に共通認識化すべき変革シナリオを導き出した。

これらのコンテキストをAIにインプットした結果、これまでの延長線上にはない新しい示唆が得られたと平尾は語った。仮に、独自のメカニズムを組み込まずにAIを活用した場合、提示されるブランド価値は「衣類の守り神」といった、既存の枠組みに留まるものになる。しかし、市場の力学や顧客の深層心理、組織の課題までを読み込ませたAIは、防虫という単一機能を超えた、「クローゼットのコンディショナー」という新機軸のコンセプトを提示したのである。

独自コンテキスト有無別のAI示唆の比較
独自コンテキスト有無別のAI示唆の比較

さらに、これらの分析結果は防虫剤の枠を超え、消臭芳香剤や除湿剤といった同社の多様な資産を統合し、シナジーを最大化させる戦略へと昇華されたという。

エステーの上月氏は、これらの分析がもたらしたインパクトを次のように振り返る。

「我々も、防虫を超えた何らかの新しい価値が必要だとは考えていました。データサイエンスとAIによって提供すべき価値が明確に再定義されたことで、既存の製品群をどう組み合わせ、どのような新しいアプローチをとるべきか、その可能性も鮮明になりました(上月氏)」

エステー株式会社の代表執行役社長 上月 洋氏

この再定義を実効性の高い戦略とするため、中期の具体的な事業転換イメージを策定した。戦略の骨子は、既存顧客を守りつつ、徐々に客層と提供価値を「拡張」することにある。防虫ニーズの縮小による売上低下を抑制しながら、中期目線で新コンセプトでの売上回復を狙うシナリオだ。

商品戦略においても、現状のラインナップを見直し、追加戦略が検討された。既存の「ムシューダ」シリーズの改善に加え、これまで存在しなかった新たなカテゴリを創出。同社のDNAを継承しつつも、非連続な成長を生む商品アイデアがAIによって導き出されたのである。

この戦略方針は、現場の施策とも合致している。2025年9月からは、「はじめよう、エステークローゼット。」というメッセージを掲げ、防虫・消臭・吸湿の機能を統合した「NOTEシリーズ」の展開が開始された。上月氏は、「虫食いやニオイ、湿気といったクローゼット全体の課題を、異なる製品の組み合わせで解決していく。ここには、我々にとって非常に大きな可能性があると確信している」と、この取り組みに確かな手応えを感じている。

最後に舵を取るのは「人」

セッションの締めくくりに、両氏はAI時代における人間の役割を再確認した。

AIの能力が向上し、タスクの多くが自動化される時代が近づいている。だからこそ、人は「意志や仮説」、そして「意思決定をする力」を研ぎ澄ませていかなければならない。上月氏は、次のように展望を語る。

「AIの提案は進化しますが、結局は、お客様にどう寄り添いたいのかという『意志』。また、『仮説』の持ち方も重要です。私なりの仮説がAIと全く異なることもありますが、その時はまず自らの仮説を実証してみればよいのです。AIを活用すれば検証のスピードは格段に上がります。10倍のスピードで挑戦を繰り返し、ブランドを、そして市場を変えていきたいと考えています(上月氏)」

また、平尾も「AIはチャレンジした過去のデータがあるからこそ、新しい示唆が出せる」と述べた。その上で、「AIはブランドが次に向かうべき道を指し示してくれるが、最後に意思決定をするのは『人』であり、その一歩を踏み出す勇気こそがブランドの未来を創る」と結んだ。

サイカ 代表取締役社長CEO 平尾 喜昭

成熟ブランドがデータサイエンスとAIを適切に活用したとき、それは単なる効率化を超え、企業の存在意義そのものをアップデートする原動力となる。しかし、その指し示された先へ一歩を踏み出すのは、どこまでも人間の「意志」には他ならないのだ。

ブランドサミット2026、サイカ 代表取締役社長CEO 平尾 喜昭、エステー株式会社の代表執行役社長 上月 洋氏

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